~自我の忘却と超克~
Sport Philosophy
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日本代表であること
~自我の忘却と超克~
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「日本代表は練習では世界一のレベルだと思う」中田英寿が、本田圭佑とのテレビ対談で語った言葉が、日本サッカーの今を如実に表象していた。
1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した時、この国に初めてのサッカーブームが興ったのであった。時の代表の技術と今の代表のそれとを比較したら、雲泥の差があることを二人の対談は明言していた。
「あんな細かいことを正確にやるなんて」本田自身が驚くほどの技術が今の代表にはあるのだろう。しかし、なぜ試合では?
「それは練習の技術であって、試合の技術ではないから」中田が語ったことを敷衍すれば、逆にメキシコ五輪代表には「試合の技術」があった。以前、同大会得点王に輝いた釜本邦茂にゴールゲットの秘訣を聞いたら、「だからね、ボールがくるでしょ、そしたらこうねトラップして、ゴールにボールをズドンとね」 ウゥ! それしか表現できない技術を有していたということであろう。
果たして、練習の技術を試合での技術に昇華する触媒とは何か?中田自身は「気持ちの入れ方」と表現していた。ラモスであれば、「魂」と言っただろう。
つきつめれば、それは試合での自分自身を練習に出し尽くす!ということではないか?学校の宿題を仕方なくやっている子とこの漢字を克服するためにマスターするのだと念じて練習する子とでは、宿題の意味が全く違ったものになる。
練習では監督の指示通りに素晴らしい動きをして、精巧なパスを出す訓練を続ける優秀な選手!しかし、それが練習をこなすためだけであったら、果たして本物の技術になりえるだろか?
ゴールをするためにサッカーをしているのだ。だからそのための訓練をするのだ。国民を豊かにするために政治家としての修行を積むのだ。選挙に勝つために政治をするのではない、良い政治をするために選挙に勝つのだ。
日本サッカーの現状は、日本の政治の現状でもあるらしい。
さて、中田が本田に託したことは、自分自身を後悔しないように出し切ることであった。それは中田自身が2006年ドイツW杯で、他の選手のために自らのサッカーを捨てて戦ったことに対する悔いでもあった。中田は自分自身を捨てないことで、戦う技術を磨いた。一方、ラモスは日の丸を背負うという意味を自らの技術に課した。
私を貫き通すことが、日本の代表になる。自分が初めてボールを蹴って、母校のサッカー部を作り、まさに24時間サッカー漬だった頃、ボールを追い続けていた頃、その眼差しの先にあったものは彼らの言葉に昇華されている。
日本代表であることは、自分自身の代表であることと一緒だということである。「パスサッカーでは海外では認められない。ゴールを取って初めてパスが回る。そこで自分のしたいサッカーができる」(本田伝)結果を出し続けなければ自分がない状態を意識した毎日。厳しいけれども、真実が直ぐそこにある毎日。
本戦までの日々はそれぞれが日本代表になる絶好機である。自我を超克した個が生まれるまで切磋琢磨する「練習」の日々がジョージを紡いでいる。
2010.6.9
明日香 羊